かんちでんち

気になったモノ・コトをぼちぼちと。元々観劇記録メインだったものの、昔と比べると観劇回数が圧倒的に減っているので、その他雑文の方が多いのです。

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被災者でもない人間が阪神淡路大震災を振り返る 地震当日その2

 

つづき

 

結局部室にいても、何もすることが無いので

自然と解散となり、自分は親戚の家に戻りました。

 

当時、主な情報源はテレビ・ラジオしかなかったので

ひたすらテレビを見て状況を確認する。

次々と明らかになってくる被害状況に言葉も出ず

凝視するしかありませんでした。

 

民放では関西ローカルの速報から

東京キー局からの全国ネット特別番組に切り替わる。

しかし、そこで流れてきたのは

「もし、東京で同様の災害が発生したら・・・」(どこかの学者さんへの取材)

「国が被災者個人の財産を補償することはできない」(政府の発表)

などという、とても同じ日本で発生した大災害のニュースとは思えない

他人事のような内容ばかり。

東京以外で起こったことに関してはこうも無関心なのかと感じました。

関西ではあっという間に全国ネットの放送を打ち切って

関西ローカルの速報体勢に戻っていました。

 

※補足

今、冷静になって振り返ると

マスコミの現場では

自分のような一視聴者の想像を

はるかに超える事態になっていた

というか大混乱状態だったと推察されます。

関西のマスコミですら情報収集に手間取っていたのに

関東のマスコミに情報が入ってくるわけがない。

当時の総理官邸にしても地震発生直後はマスコミのニュースで

なんとか情報を把握していたというような状況だったようです。

この辺りの話、記憶のみで書いているので

かなり曖昧です。誤りがあったらすみません。

別記事で言及できれば、もう少し違った視点で書きたいと思います。

 

話は変わって。 

当時はまだ携帯電話も一人一台という時代ではなかったので

親戚の家の固定電話を借りて

実家の固定電話に何回も電話をかけていましたが

こういうときには電話回線は当然輻輳するので

全く繋がらず。

昼過ぎから何度も電話をかけて

つながったのは夕方頃だったような気がします。

しかも、お互い疲れていて、

きちんと話ができないまま通話が終わってしまい。

不安が増大し

数時間後にまた電話をかけてしまいました。

 

実家の方は自分がいた親戚の家よりは震源地に近く。

また、マンションだったせいもあり

相当揺れて母親はかなり怖い思いをしたようです。

高いところに置いてあったものがいくつか落ちてきたみたいですが

被害としては大したことはありませんでした。

ただ、団地内では建物の一部が崩れ落ちたマンションもあったようです。

 

そうやって、正直よくわからないまま

地震発生当日の一日が終わりました。